近未来と未来と現在

alphalook2005-05-03


今日の画像は、ある日ふと携帯のカメラで撮影したJRの車両である。
「・・・どっかで似たフォルムの車両があるなぁ・・・」
と少し頭の中の内部記憶情報(攻殻機動隊S.A.C.風に言うと(苦笑))をサーチしていたら、あったあった。
松本零士銀河鉄道999」の「車両333」と似てるじゃないか。
近未来じゃなくてもう「未来の列車フォルム」にまで現代は来たのか?なんてふと想う。
(新幹線の500系という「丸い筒みたいな奴」は逆に度肝抜かれたけども(^^;)
電車でGO!新幹線山陽新幹線編パーフェクトガイド (The PlayStation2 BOOKS)
過去の図鑑の「近未来車両」なんて、今から見れば「ダサかったなぁ」とも思う。
ちなみにC62車両じゃないけど、こんなのもあったので、UP。

少し離れていたので画像処理してこれが限界。携帯カメラでも近づけば結構イケるのになぁと残念。

私の原点

alphalook2005-05-01


前回の日記で、私がE・フロムに影響を受けていると受け取られる事を書いたのだけど、本当のところ、影響どころじゃない。
私が「力動精神医学・精神分析学」の思考をするにあたっての根底思想になっている。
だからある意味、私は精神分析学派でいうと、「ネオ・フロイディアン」だと思う。
創始者ジークムント・フロイトの「古典的精神分析学(実際はもっと込み入ってるんだけど、突っ込みたい方はそちらの本をどうぞ)」の俗に言う「リビドー理論」よりもネオ・フロイディアンの「環境・社会的影響重視」、特にフロムの「社会的性格」を重視している。
もちろん、人間だから衝動・欲動を自覚するし、煩悩だって自覚する(フロムが晩年、仏教に興味を抱いたのは興味深い事なのだろう)。だから「リビドー理論」の発展修正理論があっても当然だし、フロム曰く「人は時代の影響から逃れられない」だったかな?そんな事を書いていた。フロイトの時代(1900年前後)はそんな中であの理論を出したものだから大変だったらしい。
それから、結構どころじゃない難解さだけど重要と見なしている、イギリスのメラニー・クラインから始まった「対象関係論学派」の洞察さの影響も、小此木敬吾さんの書物の助けも借りて、取り入れた。
境界例概念やコフート自己心理学はこれなくしては理解出来ないし、逆説的に、これが下地になっている。
正直言って、難しい。とにかく難しい。私なりに理解出来るようになったのは何年も経ってからだ。だから、精神医学でも分野違いはやっぱり分からない。精神病や躁鬱病の基礎概念は分からないし、ましてや「障害(Disorder)」というラベリングのごとき理解には、現代的な「操作的非個性化」を感じてしまう。
「誰さんがこういう状態」ではなく、「何とか障害の誰かさん」というベルトコンベアーで仕分けするような扱われ方みたいな。正に現代の工場みたいで、ちょっと吐き気もする。
我ながら、現代精神医学への痛烈な皮肉を書いている気がする。でも、ひとりごとです(苦笑)

そんなこんなを書いたけど、これまでの私自身の経験で、原点から発している事が一つあります。
今まで学んで来た精神医学・臨床心理学・精神分析学は、有機的なヒューマンな理解の知識として使う事に意味がある、と。
J.L.ハーマンは「心的外傷と回復」の中で、トラウマの知識が時が経つにつれて対処する被害者を「物扱い」する事を危惧していたと思う。

でも時代は、どうだろうか?近年リストラの影響も強い正社員から外れている労働力(フリー)は「派遣」「バイト」として歯車のように従来のサラリーマンの年収よりも年総合収入で低く扱われて、しかも「請負派遣」という日払いの派遣業は、まさにネジのように労働者をデータベースに登録してボロぞうきん同然に扱う某引っ越し業者へ送り出し、仕事依頼件数の増加を目指して突き進み、毎日人を募集して過剰状態になって、仕事がもらえない人が必ず出る仕組みになってしまった。そんな会社が某TV局が入っている死の回転扉のあるビルにオフィスを構えられている。まさにフロムのいう「搾取」だと思わずにいられない。

原点を意識する時、今の時代はあまりにも生きづらい。
歴史からみて確かに生命の保証の確率は、先進国では高くなった。
けど、昔の明治時代の「おしん」の様な日本の庶民の悲劇が、現代の東南アジア諸国で繰り返されている。
21世紀は、実は南北問題が深刻化する時代なのではないか?そんな予感もする。
20世紀後半に、過去のナチス・ドイツが行った「ユダヤ人問題の最終的解決(絶滅計画)」に匹敵する大虐殺行為が、カンボジアポル・ポト政権下で行われていた事を初めて知った時には始めは信じられなかった。
のちにそれが事実だった報告を受けることになるだろう。
おそらく、第2次大戦直前の世界の庶民も、あんな「地獄」に世界が見舞われるとは考えられなかったと思う。
ヒトラーの出現が大変危険であった事を事前に洞察出来た人々は、大変少なかったのだろうか。
第1次大戦後の傷跡残るヨーロッパでは考えたくなかったのかもしれない。

歴史は過ちを忘れてまた繰り返す事を、歴史家の方々は知っていると思う。
今のアメリカを始めとする世界情勢に、日本の政治情勢に(都の君が代処分問題に天皇自身が暗黙でやんわりとやりすぎとの見解を出しているのに、それを相手にしない在り方は、昔の軍部独走と似ていないだろうか?)不安を強く感じてしまう。

打っているうちに、またこんな話を出してしまった。
まるで「自由連想法」みたいに出てきてしまった・・・かも(苦笑)

なんだかなぁ・・・

alphalook2005-04-30


これを前に読んだのは、実は冬の頃。もしかしたら、年明けかもしれない。
アスペルガー症候群がわかる本
一般書的な価格の割に、内容はきちんと学術書。理路整然と教科書的に構成されている。
しかし、力動精神医学の感覚とは違う感触があり、それに「冷たさ」を感じたのは、私の感性。
(なので、途中で挫折してしまって、借りた方に返却して、最近自分で買い直した次第)
特に「障害(Disorder)」という今流行?(この言い方はある意味痛烈な皮肉かもしれない)の用語の連続パンチに、この著者が評価されていようが「学術的冷徹さ」を感じてしまう。
たとえば。
「傷つきやすさ」を
(1)「障害」として理解するか?
(2)人間的素質として理解しようとするか?
では、視点が全く変わってくる。
残念ながら、今の精神医学ではDSM-IV-TRの様な「症状から診断を行う操作主義的な診断体系」が主流の様で、前者になるのではないかと思えてくる(精神科医の方ならばとっくの昔に分かり切った事だと思う)。
話を戻して。
この本を改めて読んでみようとしたのだが、駄目だった。細かい疑問(例えば受動攻撃性パーソナリティ障害がDSM-IV-TRでは除かれているのに挙げられている。これが消えたのには理由があるのだが。ヨーロッパの方だからICDを重視しているのだろうか)もあるが、ヒューマンさが感じられないのだ、私には。
思考の分野が大きく違うと感じてしまった(白状しよう、力動精神医学的精神分析学になじみ深いのだ。特にネオ・フロイディアンだと言われるE・フロムが原点である…)。
そういう理由もあるが、残念ながら今の私には前者の思考として読み抜く気力さえも湧かない(これはけなしているのではなく、単なるコンディションの問題である)。
でも、元々分野違いなので書評する訳でもないし、それはそれでいいかもしれない。今は。
それが分かっただけでも、収穫かもしれない。
やっぱり、パトナム(Frank W. Putnam)著/中井久夫訳の「解離」の方が今はいいか?
でも、値段高いよこれやっぱり・・・とても手元に置きたくてしょうがないんだけど。
解離―若年期における病理と治療

生きてるだけで心が痛む

alphalook2005-04-28


ここのところ身の回りでいろんな事が起きているからかもしれないけど、生きてるだけで心が痛い。
私だけの事から知人友人の事、地域の事から国、世界情勢まで。想うのが辛い。
TVで報道される民放のJR列車事故の報道の仕方を街頭でウンザリしながら通りすがり、友人・知人の事を想いながら心が痛む。
私自身の生活の不安でも痛むし、社会の表世界から裏世界までの事を考えるだけでも痛む。
図太い人ならへっちゃらなのかもしれないか、耐えられる・・・という事は、私って、世に言う「心が繊細で弱い人間」ってこと?
自分で書いてて苦笑してしまう。
けど、それもまた事実かも知れない。
最近は精神医学からアスペルガー・スペクトル」という「アスペルガー症候群」「ADHD」「ADD」などを総合包括的に理解しようという概念が出てきているのだけど、自閉症スペクトラム障害」(下記文献P.12)というベクトル上でアスペルガー障害や自閉症に関わる各診断名を包括して理解する考え方も出されているが、ネットで調べようとは思えないのがメンタルヘルスのネット情報の不確かへの警戒心から。
(訂正ラインは、うかつにも新たに学び始めた領域に対して私の勉強不足で不確かな記憶から誤った事を書いてしまったため。その後悔を残す為にあえて消さないでタグで誤り訂正とすることにした。日記だからとはいえ、これは痛恨の間違いだ・・・)
アスペルガー症候群がわかる本
「専門家・権威」という肩書きの方の内容でも、同一疾患で何人もの専門家同士の論争があるのが常だから素人考えの頭っからの信用は大変危険・・・と思ってる(だって、医師免許取得してる・博士号持ってる方々の間での論争ですよ!)。それより実際の書籍の方が「論拠論文・参考文献」が把握しやすいので、辿りやすい。「この人は●●という人の概念(学派)だな」という事も分かりやすい。
あくまでネット情報は「道具」・・・なんだけど、それを選別するのがこれまた大変なんだよねぇ・・・
そういう意味では、Yahoo!のカテゴリ検索は指標になるんだけど、メンタルヘルスになると、「おいおい」と疑問続出カテゴリ名が・・・突っ込みどころ割とあり。「人格」の訳語は「パーソナリティ」と遂に改められて認められてるぞ、とか。
DSM-IV-TR新訂版」読みなさい、という愚痴も出る。
ISBN:4260118862

今日は打ってるうちにゲンキが出てきた。珍しい(苦笑)

改装用品は金がかかる

alphalook2005-04-26


3月あたりから、部屋の改装をやっている。
それまでの部屋は「ただ生活する場所」として、
引っ越して来た時の大改装以来抑うつ気分が上向いていて費用がかけられる時に、それまで
某S店やO店で見かけた物を「これは使えそうだからチェックしておこう」「これをあそこに使おう」
などと頭に入れていた物を購入して改装する事はあった。
しかし、日にちが経つにつれて結局はまた乱雑になっていくのが常だったし、肝心の細かい部分まで手が回っていなかった。
それを今しているのだけど、その小物一つ一つは微々たる金額。しかし総額になると、結構馬鹿にならない。電気線の配線カバーにしても、邪魔にならないように加工していくと、千円はすぐ越えてしまった。
しかし、それまでの「うざったさ」が消えて快適になり、次の整理に取りかかれるようになった。
これの繰り返しで、次第に部屋は今までよりも快適になってきた。
あとは、お金があまりかからなければ言う事無しなのだけど。
結構吟味して小物を選んでいるのだけど。
安くて着たい服があっても我慢しているのだけど。
引っ越した時の設置加工した木材が腐って、入れ替え素材から吟味し直しも痛いなぁ・・・安くあげる方法は?・・・エトセトラ。
それでもここまでかかってしまうのかな・・・
部屋の住まいコンセプトも引っ越して来た時からまた変わっているし。
頭を抱えながらも、工夫しながら、いらない物選別して捨てたりと、抑うつ気分が上向いた時にこつこつやっている今年の春。

哀しき存在証明の欲動

alphalook2005-04-25


日本のblog(Weblog)は、所詮「インターネット日記」と見なされているらしい。
確かに、私もそれに同意する。
私がこうしてここにこの文章をInputしているのも、突き詰めれば「日記」なのだから。
それも、紙媒体の、自分しか見る事のない、いや、永遠に自分さえ見る事のない日記とは違って、不特定多数の中の誰かに見てもらえる事を期待してInputしている、「公開日記」という、性質の異なった日記のかたち。
存在しているという事の証だけを認知してもらいたいだけの、身勝手な行為。
根本には、「僕を見て・私を見て・存在を認めて」という、哀しき叫びの欲動。
現実社会の孤独を補完する為の行為、という指摘もまんざら外れてはいないだろう。
現実社会。都市部。郊外。地方都市。農村部。過疎地。どこにいるかでその意識は違うだろう。少なくとも同じではない。都市部で生活・勤労している人が、農村部で生活・労働している人の意識を共有できるか?を問う事自体がずれているように。
私の意識は、この場所で、こうしている。誰とも違う、私自身の意識。
ネットの中に、独り言という日記を「書く」ことで、自分自身で存在を確認しているのかもしれない。
歪んだ鏡を観るように。
きっと、これを読んだ方は「暗い」「メンヘル(2ちゃん用語)系だな」などと思っているかもしれない。
辛辣な人は「自己中」とさえ投げかけるかもしれない。
ネットは現実社会の集団の中よりも感情を想起しやすい性質があるらしい。腕力のない人でも、「暴力的な言葉」を投げかける事ができる。身体に関係なく、性別に関係なく。
しかし、こういうのも、視点の一つに過ぎないのではとこれを書いていて気づく。
人の悪意への防衛を自覚する。
世の中にはいろんな感情を表す方々がいる。一人一人が「ユニーク」な存在な視点に気づく。


段々、主題が逸れていく。それもまたよし。自己満足のためのひとりごとなのだから・・・

もがきあがいて堂々巡り

alphalook2005-04-24


気をつけていても陥るものがある。
「堂々巡り」(西洋風にはラビリンス・又はラビリントス-迷宮-<ギリシャ神話にも出てくる迷路)>)
特に、気持ちに余裕がない事さえ気がつけなくて、一つの事に集中して思念を巡らせている時に陥りやすい。
ノイローゼの根本原因の一つとも言えるかもしれない。
初歩的な心理カウンセリングは、これに陥っている事を本人自身が気がつくように見守って、別の視点を発見できるように促す…実は実生活の中で知らず知らずのうちにこれを行っている人達も多いのだけど…事も含まれる。
「それがどうした!」と、思わず小説・アニメ化の作品「銀河英雄伝説」のダスティン・アッテンボローが言いそうだが、そう言える人はいまのところ心配はなし。


色々なストレスに晒されていたので、私にできる賢明なただ一つの方法は、心の片隅で「客観的に私の思考と行動を眺める」だけであった。後は意識が経験をどのくらいフィードバックしてくれるか・・・にかかっていた。
これを一人でやるのは、実は大変な事なんじゃないかと白状する。自慢でもない。
これまでの失敗の経験からどれくらい学べているか、又はそれについての学問を血肉化しているか。
そして、「自己」と様々な臨床精神心理学者達が昔から今日まで述べている、「意識・無意識をひっくるめた自分」(=「魂(ソウル)」と言っても良いかもしれないし、かのジークムント・フロイトも、原著のドイツ語ではそれを意味する言葉を書いていたという)にかかっているのだろう。


さて、なんとか私も今日になってそれにやっと気づけたのだけど、これからどうしたものやら。
少なくとも、考える幅は囚われから放たれて、少しでも広がった。