感覚が「関東大震災」以降「阪神大震災」以前

阪神大震災の時は、行政の「アホらしいほどの腰の重さ」に世界中が呆れた筈。国内でも呆れられた。
現場では壮絶な状況に立ち向かい、かたや机でお仕事のエリートさん達は、一体何してた?税金泥棒と罵られても全くおかしくない事をしていた(いや、していなかったのだ)。
踊る大捜査線 The Movie」の「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」そのまんまの感覚。
そして今回も、都と国と話してみて、「避難場所のスペースは火災に対してのもの」のオウム返し。本当に、大卒?論文は何かいたの?専攻は?もうばかばかしい程、話にならない。
空輸によるヘリポートの確保の必要性は震災時から神戸で言われていた事が、ネットでも分かった。なのに、「これから検討しているところです」
今更?「神戸」から10年も経ってるんですよ?と絶句。
柔軟さがない。決められた事をそのまま通すのになれきっているのかな?エリート官僚になるには、「永田町の論理」みたいな「アホな論理」に染まる事から始まるのかな?もう、この文体自体がかなり逝ってるが、呆れかえって「国民はまた見殺しにされる」と痛感した。「神戸の二の舞」は必死とは、この事だ。