私の原点

alphalook2005-05-01


前回の日記で、私がE・フロムに影響を受けていると受け取られる事を書いたのだけど、本当のところ、影響どころじゃない。
私が「力動精神医学・精神分析学」の思考をするにあたっての根底思想になっている。
だからある意味、私は精神分析学派でいうと、「ネオ・フロイディアン」だと思う。
創始者ジークムント・フロイトの「古典的精神分析学(実際はもっと込み入ってるんだけど、突っ込みたい方はそちらの本をどうぞ)」の俗に言う「リビドー理論」よりもネオ・フロイディアンの「環境・社会的影響重視」、特にフロムの「社会的性格」を重視している。
もちろん、人間だから衝動・欲動を自覚するし、煩悩だって自覚する(フロムが晩年、仏教に興味を抱いたのは興味深い事なのだろう)。だから「リビドー理論」の発展修正理論があっても当然だし、フロム曰く「人は時代の影響から逃れられない」だったかな?そんな事を書いていた。フロイトの時代(1900年前後)はそんな中であの理論を出したものだから大変だったらしい。
それから、結構どころじゃない難解さだけど重要と見なしている、イギリスのメラニー・クラインから始まった「対象関係論学派」の洞察さの影響も、小此木敬吾さんの書物の助けも借りて、取り入れた。
境界例概念やコフート自己心理学はこれなくしては理解出来ないし、逆説的に、これが下地になっている。
正直言って、難しい。とにかく難しい。私なりに理解出来るようになったのは何年も経ってからだ。だから、精神医学でも分野違いはやっぱり分からない。精神病や躁鬱病の基礎概念は分からないし、ましてや「障害(Disorder)」というラベリングのごとき理解には、現代的な「操作的非個性化」を感じてしまう。
「誰さんがこういう状態」ではなく、「何とか障害の誰かさん」というベルトコンベアーで仕分けするような扱われ方みたいな。正に現代の工場みたいで、ちょっと吐き気もする。
我ながら、現代精神医学への痛烈な皮肉を書いている気がする。でも、ひとりごとです(苦笑)

そんなこんなを書いたけど、これまでの私自身の経験で、原点から発している事が一つあります。
今まで学んで来た精神医学・臨床心理学・精神分析学は、有機的なヒューマンな理解の知識として使う事に意味がある、と。
J.L.ハーマンは「心的外傷と回復」の中で、トラウマの知識が時が経つにつれて対処する被害者を「物扱い」する事を危惧していたと思う。

でも時代は、どうだろうか?近年リストラの影響も強い正社員から外れている労働力(フリー)は「派遣」「バイト」として歯車のように従来のサラリーマンの年収よりも年総合収入で低く扱われて、しかも「請負派遣」という日払いの派遣業は、まさにネジのように労働者をデータベースに登録してボロぞうきん同然に扱う某引っ越し業者へ送り出し、仕事依頼件数の増加を目指して突き進み、毎日人を募集して過剰状態になって、仕事がもらえない人が必ず出る仕組みになってしまった。そんな会社が某TV局が入っている死の回転扉のあるビルにオフィスを構えられている。まさにフロムのいう「搾取」だと思わずにいられない。

原点を意識する時、今の時代はあまりにも生きづらい。
歴史からみて確かに生命の保証の確率は、先進国では高くなった。
けど、昔の明治時代の「おしん」の様な日本の庶民の悲劇が、現代の東南アジア諸国で繰り返されている。
21世紀は、実は南北問題が深刻化する時代なのではないか?そんな予感もする。
20世紀後半に、過去のナチス・ドイツが行った「ユダヤ人問題の最終的解決(絶滅計画)」に匹敵する大虐殺行為が、カンボジアポル・ポト政権下で行われていた事を初めて知った時には始めは信じられなかった。
のちにそれが事実だった報告を受けることになるだろう。
おそらく、第2次大戦直前の世界の庶民も、あんな「地獄」に世界が見舞われるとは考えられなかったと思う。
ヒトラーの出現が大変危険であった事を事前に洞察出来た人々は、大変少なかったのだろうか。
第1次大戦後の傷跡残るヨーロッパでは考えたくなかったのかもしれない。

歴史は過ちを忘れてまた繰り返す事を、歴史家の方々は知っていると思う。
今のアメリカを始めとする世界情勢に、日本の政治情勢に(都の君が代処分問題に天皇自身が暗黙でやんわりとやりすぎとの見解を出しているのに、それを相手にしない在り方は、昔の軍部独走と似ていないだろうか?)不安を強く感じてしまう。

打っているうちに、またこんな話を出してしまった。
まるで「自由連想法」みたいに出てきてしまった・・・かも(苦笑)